石田雅俊氏について

◆始めに

本人(石田雅俊氏)から許可を頂いたので、以下の通り掲載いたします。

https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/campus/1722646542/453


◆石田雅俊氏の親戚関係

■父方(I市では有名なお茶農家)

  • 祖父
    →父が幼少期に死去。死因は不明。事業に失敗して自殺ともいわれているし、交通事故だともいわれている。父の口から真相が告げられたことはない。父もおそらく知らない。祖母が女手一つで子供4人を育てることになる。
  • 祖母
    →祖父の死後4人きょうだいを女手一つで育て上げる。横須賀出身。若い頃は電話交換手等をしていたと聞く。
  • 叔父A
    →石田家の跡取りとされていたが、服毒自殺などを何度も繰り返し、最終的に心不全か何かで死ぬ。金にうるさく、祖母の死の際に預金通帳を隠そうとするクズさを見せる。叔父Aの息子達(私からしていとこ達)の幼少期は私の父が面倒を見ている。
  • 叔父Aの娘
    →高校在学時からの男性と交際、卒業後即座に結婚出産。旦那を尻に敷いている。
  • 叔父Aの息子A
    →工業高卒後、工場勤務の傍らお茶農家の仕事をする。私も大学生のときに叔父の息子Aと共にお茶農家の仕事をする。優しい性格。ずっと結婚できてなかったが、最近結婚したらしい。現時点で石田家跡取り。
  • 叔父Aの息子B
    →工業高校卒業後、工場勤務。社会人バスケットボールサークル所属。早々と結婚し現在は嫁子供と暮らしている。ケチな性格。
  • 叔父B
    →法政大学卒。デパートの警備員等をしていて、仕事があまり安定していない。父のコネで公務員の勧めをするが断る。心身ともに一応は健康。
  • 叔父Bの息子
    →私とはほとんど交流はないが、どこかの大学を出て小学校教諭、職場結婚。真人間。
  • 叔父Bの娘
    →私とはほとんど交流はないが、派遣で仕事を転々としていたらしい。
  • 叔母A
    →保険(明治安田生命)の外交員。特に特徴はない。癖が多少強い。田中真紀子のような感じ。
  • 叔母Aの息子
    →私とはほとんど交流がないが、二浪した挙句、明治学院文学部。一時期は京大医学部に行きたいとか言っていたらしいが、最終的に消防士になる。性格が悪い。
  • 叔母Aの娘
    →私とはほとんど交流がないが、製品テスト(衣服やらを薬品に漬ける等)の仕事をしていた。比較的真人間。

  • →4人きょうだいの末っ子。定年退職済み高卒公務員(技術職)。4人きょうだいの末っ子にも関わらず親戚内では葬儀を取り仕切るリーダーシップを発揮している。責任感は強いが、精神的に不安定な部分もある(残土処理の部署に配置されて、やくざがらみのトラブルに巻き込まれたとき等)。高校時代は家庭裁判所送りになるレベルの不良だったが一応は厚生して公務員(当時の落ちこぼれの受け皿)に収まる。家に仕事は持ち帰らないタイプでやりたいことは自由にやらせてもらえた(後述)。私のアンチが父の職場を特定して職場あてに迷惑メールを送ったことも。

■母方(福島県田村郡)

  • 曾祖父
    →通称「ハゲタマ爺さん」。マムシか何かを漬けた酒を造っていた。晩年は孤独さを感じたのか「インコが飼いたい」と言っていたが親戚一同でインコを買い与えたが飼育放棄。老衰で死去。
  • 祖父
    →ダム建築作業員や酪農、養蜂、養蚕、稲作と幅広く仕事をしていた。金銭的な余裕はなし。心臓病で死去。おおらかな性格。
  • 祖母
    →田舎のおばあさん。昔ながらの人ではあるが、最近死んだらしい。葬儀が行われたかは不明。訛りが強烈で何を話しているのか分からない。
  • 叔母A
    一級建築士。母とは何らかの確執があるらしい。真相不明。父方の祖母の葬儀の際に姉に対して母の事を「何か」言ったらしく。温厚な姉が激昂。「何か」については未だに不明、現在小田原にいるとのこと。息子娘関係も不明。
  • 叔父A
    福島第一原発作業員。特にこれといったことはなし。生きている。
  • 叔父Aの息子A
    →幼少期に何度かしか会ってないが、すれていた(私が夏休みに田村郡の母方の実家に遊びに行った際に「500円あげるから五十人山に行こう」とか言いながら、あとで「500円盗まれた!」とか騒ぎ出す)
    →最終的に陸上自衛隊勤務
  • 叔父Aの息子B
    →幼少期に何度かしか会ってないが、知恵遅れ風だった。
    →最終的に何になったかは不明。
  • 叔父Aの娘A
    →1度しか会ってない、心臓が肥大する病気を生まれ持ち2歳ぐらいで死去。
  • 伯父B
    →いわゆる放浪人。結婚し子供を二人作るも離婚、親権放棄。テキヤをやったり定職にまともにつかずにブラブラしていた。面倒見はよく海へ一緒に遊びに行ったり、たまごっちの偽物をくれたりした。私の母が伯父Bを何とかしようと、伯父Bと交際中の女性に伯父Bの面倒を見てやるよう色々説得するが、失敗。現在消息不明。

  • →中卒(定時制高校中退)。中学卒業後に福島から埼玉に働きに出される。狭山のカネボウの工場で化粧品を作っていたらしい。福島とは距離を置いている。家でじっとしているのが苦手で経済的に余裕があるのにパートで働いていた。あまり学はないが、幼児期の私に英語教育をしようとしていた(しかし、母は英語が分からないので、英語の絵本をそれっぽい作り話をして読み聞かせていたとか)。過干渉な方で毒親とは言わずとも受験期などに私以上に、私の受験を心配していた。私が出かけると「どこに行くの」「誰と会うの」「何時に帰ってくるの?ご飯は?」というタイプ。彼女が出来てもなかなか報告が出来なかった。父と母の出会いは未だに不明。

  • →私より2歳年上だが未婚実家暮らし。いわゆる趣味に生きるタイプの人で男女問わず遊びに行く(飲みに行く等)を全くしない。読書やアクアリウム、動物が好き(何十年も生きる亀、ウーパールーパー、ハムスターを飼育)。結婚願望なし。慈悲深い方で殺処分寸前の犬をペットショップで買う等する。図書館司書、学芸員の資格を持つ。図書館で働いていたが、私のアンチが迷惑電話をローラー作戦的にかけたので退職に追い込まれる。現在はどこかで事務をしているらしいが、知らない。大正大学史学科卒(中国史を勉強したいという理由)。昔は姉が買ってきた少年漫画を一緒に読んだり、ゲームで一緒に遊んだり、仲は良かった。私が家庭を壊したので現在は完全に疎遠。一応関係修復を試みて誕生日に姉あてにアマゾンギフト券を3000円送ってみたが・・・。

◆石田雅俊氏の経歴

■幼少期~保育園~小学校3年生まで

  • 割と普通な子供ではあったらしい。ただ母から伝聞で聞いた話ではあるが、姉と姉の友人(鶏を飼っている)と私が高倉寺で遊んでいるときに、ブランコに乗っている姉の友人の顔面に巨大な石を投げつけてケガをさせたことがあるらしい。
  • 姉と姉の友人(男)と近所の家を周り酒瓶の蓋を集めるという遊びをしていたが、私は自転車を見守る係。
  • 高倉保育園入園、当時の保育園の担任はD先生。今でいうところのauの三太郎(桃太郎、金太郎、浦島太郎)を登場させる段ボール工作を作ったり。クリエイティブな面を発揮、柴犬(チロ)がいたがある日いなくなり衝撃を受ける。
  • 近所に爬虫類ショップが出来た際に小鳥を飼うが、即座に死ぬ。後に爬虫類の餌用の小鳥だと知り衝撃を受ける。
  • この頃、宮崎勤事件が起きたので姉や姉の友人達と遊ぶときは厳戒態勢が敷かれていた。

入間市立高倉小学校入学

  • 小学1年~3年までN.T.と特に仲が良く、高倉ホイッスルという少年サッカーチームに一緒に参加していた、当時の私のポジションはハーフ。後にN.T.はエリートに成長する。
  • 小学校1年2年担任、I先生(ただのおばさん)。
  • 小学校3年担任、N先生(スキンヘッド、パンを献上すればシャープペンシルの使用を許す)。
  • 小学校3年まで借家。小学校3年で父が元々あった叔父A所有の土地を譲り受けて、父の叔父の大工の協力の元、戸建てを建てて、引っ越し。

■小学校3年~中学1年生まで

  • 藤沢南小学校へ転校。
  • 日常生活に基本的に問題はなかった。
  • Y.S.(県営住宅住み・石材屋の息子・後にグレる)、T.H.(トラックドライバーの息子、後にグレる)、M.O.(サッカー少年)、T.N.(大工の息子)と仲が良かった。
  • 進研ゼミで勉強はしていた。
  • 算数が全くできない、体育も苦手で逆さ上りも縄跳びの二重跳びも出来ない。
  • 掛け算の段階で苦手でトイレに九九の紙を貼ってもらっていた。7の段が鬼門。
  • 藤沢南小学校の近くには当時NTTの社宅があり、とにかく転校してくる人が多かった。NTTの社宅で仲良かったのはD.F.(後に野球推薦で山梨学院へ行くも挫折)。
  • 藤沢南小学校転校時に姉(当時小学五年生)が元から藤沢南小学校にいた他の女子生徒達からいじめられだす。おそらく担任が、転校してきた姉を馴染めるように一種の贔屓をしたことが原因。→これが原因で後に私がいじめられだしてもなかなか両親に言い出せなくなる。
  • 小学4年担任、A先生(メガネのヒステリック)
  • 小学5,6年担任、N先生(やたらと熱血)
  • 「キレる」事件を小学4年生のときに起こす。朝登校した際に、私の席にJ.K.という子が座っていてどかした。その後、後ろを見たらJ.K.が睨んでいる気がしたので座っているJ.K.の頭をつかんで膝蹴りを連発。唇裂傷のケガをさせる。母と謝りに行く→このことが原因で中学に上がるときに「目をつけられてる」といったようなことを言われだす
  • 小学6年時に父親がワープロを買ってきて私はタイピングの練習を始める。PHSも家族共有のものとして所有していて、割と最先端なことを体験していた。

■中学時代~高校進学まで

  • 入間市立上藤沢中学校入学、ソフトテニス部入部。
  • 基本的には問題はなかったがやはり「キレる」事件を起こす。
  • 中学1年時→私が住んでいる家の近くにエステート白馬という建設会社が住宅街を建設。そこに引っ越してくる女の子(Yさん)がいると告げたらI君という子から「ストーカー」等とからかわれ。またしてもキレてしまった私はI君と喧嘩になり、頭突きをし鼻を骨折させるケガを負わせる、母と謝りに行く。
  • 中学1年時に、S.K.(ゲーム好き・後に聖望高校進学)、T.I.(競馬好き・後に早稲田高等学院進学)らが引っ越してきて仲良くなる。特にS.K.とは仲が良くマジックザギャザリングというカードゲームをしに一緒に小手指にあるカードショップに行っていた。複雑なルールを理解していたのは優秀か?
  • 中学2,3年時からは、N.O.(ゲーム好き・後に拓殖大学附属一高に進学するも喫煙がばれ退学へ)、Y.S.(ゲーム好き・後に早稲田大学高等学院へ進学)と仲良くなり行動を共にするようになる、彼らとの付き合いで、私も喫煙を開始。
  • ただ、彼らとの「過激な遊び(具体的には放課後に中学校の裏の林で下半身裸で畑に向かってハンドスプリングする等)」がばれて、Y.S.、T.H.らから私だけがいじめられだされる。いじめの具体的な内容は、放課後にY.S.の飼っている犬の散歩をさせられたり、ゲームセンターでの遊びに付き合わされたり、彼らが遊ぶための消火器をガソリンスタンドから盗んでこさされたりとロクなものではなかった。
  • 高校受験を控えていた私からしたらストレスでしかなかった。
  • また、姉がいじめられていたので両親が悩んでいるのを見ているので隠し続けた。
  • 「こんなクズ共とは決別したい」という気持ちも原動力になり高校受験は一応の成功。
    中学2年から山手学院という学習塾には通っていた。
  • 数学の出来なさを、英語と社会の記憶力でカバーした感がある。英語には自信があった(とにかく単語構文を覚えてゴリ押しした)。
  • 英語の講師は優秀だったが最終的に教え子を妊娠させてクビになっていた。
  • 第二志望の所沢高等学校(当時偏差値63ぐらい。共学公立、私服。校則なし、日の丸君が代問題のところ)に進学。
  • 公立高校の受験には学区制があったので、他に受けられた私の学区(埼玉第二学区)の公立高校は川越高校(男子校)だけだったが、男子校は嫌だったので受けていない。受けても落ちていたかもしれない
  • 第一志望は中央大学附属中央(当時偏差値65ぐらい、私立、私服)。私が受験の年から共学になり倍率が上がったので不合格。また現実的に考えて仮に受かっても距離的に通学は不可能だったと思われる。
  • 私服、自由を希望する傾向があったと振り返る。その他滑り止め高校は省略。

■受験まで

  • 全日本プロレスが流行ってるころから格闘技が大好きだったので柔道部に迷わず入る。
  • 部員5人(私・K.K.・N.U.・T.S.・S.T.)の弱小柔道部だったが、顧問のM先生が「部員を教えるより、俺が強くなりたい」というストイックなタイプで色々な大学の柔道部(二部)の出稽古に行ったり、合同練習会に参加したりしていた。
  • 私自身も柔道部も決して強くはないが柔道に夢中になっていて、とにかく体を鍛えていた。
  • 当時66㎏以下級でベンチプレス90㎏を何回かあげて体脂肪率も9%ぐらい。
  • 高校1年生から柔道を始めて高校3年の7月の引退までに柔道二段に昇段するというのはそこそこ頑張った方ではないでしょうか。
  • 勉強面は壊滅的。劣等生で学年全体で下から数えた方が早い。特に数学は壊滅的で、虚数(二乗してマイナスになる数字「i」)がどうしても理解できずにつまずく。補修を受けてなんとか進級。
  • 人間関係は比較的良好。女子からもモテるにはモテていた。
  • 1年9組→2年4組になった際に、クラス分けで2年4組に1年9組出身者が他にいなかったのが謎。
  • また、私服の高校だったので好きな格闘家エンセン井上大和魂Tシャツを着て登校していたが、日教組とどっぷり左翼思想バリバリ古文教師(I)に「何が大和魂だ」と言われていた。
  • インターネットも高校2年頃から始める
    (当時、ダイヤルアップ回線、パソコンはFMVのビブロ、WindowsMe)。
  • また、ガラケーでタグメール(文字を光らせたり、動かせたり)をやたら使いこなしていた。
  • 自らホームページビルダーを学割で買ってきてレンタルサーバー(フリーマーケットシアター)を借りて自分の趣味(格闘技)のホームページ(ホームページ名「必殺」)を作成して持つ。
  • BM98というリズムゲームの音源ファイルやら各種FLASHやらを自分のホームページに設置していたがすぐに飽きる。
  • 一応A8ネットというアフィリエイト的なサイトを通して収益化を狙うも失敗。WINMXとかもやっていた。
  • 2年にS.K.(後に立教大学進学→コニカミノルタに就職)とは共通のインターネットのホームページ作成の話題で仲良くなる。
  • 2ちゃんねるの武道武芸板や純情恋愛板を見ているのもこの頃。
  • 純情恋愛板では「プロフィールからモテるかモテないか判定するスレ」で辛口判定人「バルカン」を名乗っていた。
  • 高校3年生の部活引退(7月)の完全に無勉強状態から受験勉強開始。一応河合塾池袋校の早慶コースに通いだすが、全く講師の話は聞いていなかった。自習室にすら行かずマクドナルドで英単語帳読んでいた。
  • 自宅での学習が受験勉強のメインだった。河合塾にはチューターとかいうのもいたらしいが、全く知らない。
  • 受験はとにかく暗記力と記憶力でゴリ押ししていた。テクニックとかそういうのは正直よく分かってない。
  • ちなみにこの時期は2ちゃんねるの大学受験板で参考書の情報を仕入れていた。また、高校3年時にはKとは2ちゃんねる大学受験板を一緒に見ている仲間として仲良くなる。しかし、推薦されていた「ビジュアル英文解釈」は私には合わなかった。
  • 1月のセンター試験で英語196点(200点満点中)、日本史80点(100点満点中)、国語124点(漢文抜きで150点満点中)の成績を出して、法政大学法学部法律学科、成城大学法学部法律学科、成蹊大学法学部法律学科をセンター利用で合格。
  • 第一志望、慶応大学法学部法律学科。第二志望、上智大学法学部法律学科。第三志望、東京都立大学法学部法律学科。第四志望、中央大学法学部法律学科。第五志望学習院大学法学部法律学科はいずれも不合格。
  • 所詮センター試験止まりの学力。法学部法律学科縛りの私立文系受験。数学ができないので国公立は無理。
  • ちなみに早稲田大学を受験していないのは、私の高校で「早稲田に入れるなら何学部でもいい」みたいな早稲田信仰があったのでそれに対するアンチテーゼみたいな要素がある(仮に私が早稲田の何学部かを受験して合格したかは謎だが)。
  • 親は浪人は許してなかったし、私自身も興味も関心もない古文や日本史の勉強を更に1年続けるのは苦痛でしかないと思い、法政大学法学部法律学科に進学。

■大学生時代

  • バイトは一切せず、サークルにも入らない。語学(フランス語)のクラスで知り合った3人(K.F.・T.O.・S.K.)と行動を共にする。
  • 学業成績は普通か少し上ぐらいで、単位を落としたことは1度だけかと。
  • 授業外では知り合った3人とファミレスでくだらない話をしたりしていた、あとはS.I.の家で麻雀をしたり、酒を飲んだりと平均的。
  • ただ、その3人が冬にスキー旅行に行くというのに私は誘われてないし行っていない(私が一方的に友達だと思ってただけと思われる)。
  • 家と大学を往復する毎日が基本。
  • 大学1年生のころから2ちゃんねるの大学生活板で「法法法」という固定ハンドルを名乗りだす。ただ、当時はネット上では全く目立たない存在。のりたま袋だのベノムだのという存在が目立っていて、味噌子という固定ハンドルが自殺した際に葬式オフなるものを開催して非難を浴びていた。
  • あと、当時ライブドア事件があり株ブームが来て、父から社会勉強の為にと20万円を渡され丸三証券に株式口座を開き、何とか60万円ぐらいまで増やす(投資というよりかはいわゆる仕手株に賭ける投機でペイントハウス株の上場廃止に乗って儲けた)。
  • 大学4年春になり、就職活動を開始せざるを得なくなるが、文系には営業職への道しか残されていないことに気づきとても焦る。
  • ろくなエピソードトークもないので、自己PRは完全に捏造されたもの。純度100%のでっち上げ。とにかく焦ってありとあらゆる会社にエントリーシートを提出したりしていた。
    ただ、小心者なので「ここはブラック企業ではないか?」と疑心暗鬼になりエントリーシートが通っても一次面接に行かないという行動を繰り返す。
  • 最初は株をやっていたということで証券会社メインで就職活動をするが証券会社は株をやってるとかいうのは関係なしのバリバリの体育会系業界だと気づき諦める。大和証券のリクルーターから23時に電話がかかってきたのが気持ちを固めた。
  • H社の集団面接で知り合った実践女子大の女性と交際開始。人生初の彼女。その後はロクに就職活動はせずに株でもうけた金で就職活動するふりして昼間から彼女と遊び放題。なぜかデートはスーツ着用が義務で暑いのにスーツを着てデートをしていた。株で儲けた60万円はほとんどデート代で溶けた。
  • 夏過ぎぐらいになり彼女がソフトバンクモバイルの一般職に内定をもらい、「石田君もそろそろやばくない?」みたいなことを言われて就職活動を本格的に始める。真面目に始めたのは大学4年の9月ぐらい。ありとあらゆる業界を受ける。
  • 発達障害者が向いているとされるIT企業も受けるが適性検査で落ちる。
  • 日本証券業協会というホワイト的な業界団体の最終面接に進んだのに内定をもらえなかったのが人生の分かれ道かもしれない。
  • 一応、就職活動結果としてN社とF社の営業に内定をもらう。いずれも専門商社。
  • ただ、就職活動に際して勢いをつけるために事前に「鬼ころし」という酒を数パック飲んでから面接に臨むという悪癖が既についていた。精神科の初診も就職活動期、半強制的に受診。不眠症みたいな扱いが初診。
  • あとはダメ元で自分のワードセンスを信じて「宣伝会議」という広告雑誌の公募コピーライティングの賞にいくつかコピーを送るもセンスがないのか全部ダメ。あきらめる。
  • F社の営業に内定し、新入社員代表の答辞を任されるも、その練習に泥酔状態で行く×2回をした(当時の記憶なし、3日間ぐらい失踪していたらしい)ので内定取り消し。その連絡を所沢慈光病院の待ち時間に受ける。
  • その模様を見ていたF医師がこのままでは命が危ないと考え、「急性ストレス障害」と判断し入院。今までの全てを失う。22歳の春。
  • おそらく、失踪の背景には、仕事に必要な自動車免許がなかなか取れない、入居予定の社宅が相部屋だったが同じ部屋になる人が家電にこだわりたいとか言い出してストレス、彼女はディズニーランドに行きたい、父親は社宅が見たい。と全員の全部の期待に応えようとスケジュールを真っ黒にしていた。半分ノイローゼ。
  • 私はバイトもゼミもサークルもやっていなかったので「忙しくなること」に対する免疫がなかった。

■完全実家無職時代

  • 退院後、とにかく何をどうしていいのかが全く分からずにいた。やり直せるのかどうかも分からず。短期バイト(フジパンの仕分け、イベント設営、伊勢丹のお中元倉庫・・・)をやったりやめたり。
  • 元彼女の事を恨んで(友達に戻ろうの言葉を真に受けた元彼女が「新しい彼氏できたよ」とツーショット写真を送ってきたのが原因)新しい彼氏にミクシィで嫌がらせをしたり。
  • 公務員試験を受けたらと親と精神科医の勧めで親の金でLEC池袋校(労働基準監督官コース)に通うもろくに通わず、LECに行くふりをして池袋で酒を飲んでブラブラしていた。
  • 公務員試験は特別区ですらまともに受けてない(特に数的処理が分からないので、全部3にマークしていた)。
  • インターネット(2ちゃんねるの大学生活板)に生きる場所を見出す。インターネットラジオを初めて人気は良くも悪くもあり、連日連夜、深夜から朝までインターネットラジオをし、大学生活板でオフ会も活発にしていた。熱狂的信者も熱狂的アンチもいた。この辺りの詳細を話し出すとただの個人情報の暴露になる。
  • その後、インターネットラジオニコニコ生放送へと活動の場を変える。
  • 初回の入院は22歳で、2,3回目の入院は23,24歳かと思われる。
  • 途中から閉鎖病棟になる。病名は躁うつ病だと診断されたこともあるし、アルコール依存症だと診断されたり、なんとなくで納得していた。
  • 臨床心理士の立ち合いでロールシャッハテストだとか積み木を組んだりした覚えはあるが何がしたかったのか正直不明。金も無駄なのでカウンセリングはやめる。
  • 開放病棟での生活のときは、ばんえい競馬の競走馬を扱ってた獣医師のK氏やら、ビジュアル系バンド好きなリストカッター女子O氏と仲良くはしていたが。
  • 閉鎖病棟になってからは「いるべき場所はここじゃないだろ・・・」といった感覚は常にあった。暇な時間はオセロをしたり実習に来ていた精神保健福祉士志望の女子大生を口説いたりしていた。
  • この頃はネット上で奇行を繰り返したり、様々なトラブルを起こすことを「エンターテイメント」と考えていて、ネット上のトラブルが起因となり家庭崩壊一歩寸前まで行く。
  • 具体的には実家の住所がばれて嫌がらせ(着払い郵便やピザの送り付け、深夜の無言電話)が起こる。
  • 父とも連日連夜取っ組み合いの喧嘩になっていて、「このままでは刺すか刺されるかになる。」と判断し、捨て台詞を吐いて家出。
    現金数千円ぐらいとノートパソコン、服を持って、ゆかりのある池袋にとりあえず行く。

■池袋ホームレス時代

  • 家出した私はどうしていいのか全く分からず池袋西口公園で1週間ぐらいホームレスをしていた、当時25歳。スーツを着て擬態はしていたが、バレたのか手配師に声をかけられた。
  • この頃、ガラケーからiPhone3へと機種変更。
  • 免許証は持っていたのでS社という警備会社に籍を置いてプロミスから30万円、アイフルから10万円の借入に成功し、ホームレスからネットカフェ(ポパイ)難民になる。
  • 警備会社はすぐにクビになるが敷金礼金0円の現在の住居を借りるのには使えた(家賃保証会社の関係で)。
  • 無事、北浦和にアパートを借りてホームレス、ネカフェ難民からは脱出。

■一人暮らし開始、25歳以降

  • とりあえず金がないのは困る・・・借金返済、生活するために仕事を探さなければと出会い系のサクラの仕事を渋谷で始める(N社)。
  • 2010年。腕が評価されたのか未経験者の割にそこそこの金額はもらえていた。
  • しかし、このままではまずいのでは?という考えもまだあり、真っ当な仕事もしようと様々なありとあらゆるバイトを経験(荷揚げ、倉庫、棚卸・・・等)。
    人と接するバイトはまず不合格だが、それ以外のバイトはほぼ全て経験している。何でもかんでもやっている。
  • また、ニコニコ生放送での活動も活発で「喧嘩凸」(特にテーマを決めずに口喧嘩をして勝つ)ことに快感を覚えだす。東日本大震災の被災者を震災当時に煽って炎上もした。
  • 職業訓練(宅建)も訓練金目当てで通うがまともに授業は聞いてない。
  • 生活保護を受けだすのもこの頃。
  • 27歳ぐらいのころに2ちゃんねるメンタルヘルススカイプスレッドで知り合った18歳の女性と交際。
  • 人生2人目の彼女(本人は醜形恐怖症と言っていたが問題はそこではなく境界性人格障害の方だった)。
  • 将来を考えて生活保護のままではまずいのではと思い、消防設備士乙4乙6を取得し、C社という消防設備会社に中途入社(人生初の正社員)するも4か月でやめて入院。ちなみに同期入社の他二名も早期離職。K.K(2週間で退職)、K.S(2日目に来ない)。その女性とも別れる。
  • かなり重度の尋常性乾癬を発症してたのもこの頃。
  • その後は生活保護で毎日酒を飲んではニコニコ生放送でやりたい放題の時期。
  • ビルメンテナンスでもやろうかと思って危険物乙4とボイラー2級を取るが、くだらなく感じて目指すのをやめる。
  • サクラは出会い系に限らずありとあらゆるサクラをやっている。「支援金。当選金。副業。占い。芸能人」のサクラ。
  • 最近摘発された26人逮捕、被害総額40億の副業詐欺の会社でも働いていた。
  • サクラ会社は何十社も渡り歩いている。狭い業界なので、もう行ける会社がない(社名を上げだしたらきりがない)。
  • サクラとしての腕前は自分で言うのもおかしいが、一流でどこの会社でも即戦力ではあった。実際、給与はもらっている。
  • ただ、独特の人間関係や飲み会が嫌で短期離職。同僚の借金を肩代わりして自己破産もした(具体的に言ってしまえば高田馬場にあったR社という会社の従業員、D.S.の借金の肩代わり。うまいこと利用されてるだけ)。
  • 一流のプレイヤーではあるけどマネジメント能力や人間関係構築能力は・・・といった話。
  • 基本的に私自身、金に対する執着心がないので、サクラ仕事をして生活保護を抜けるのは女性が出来たときのみ。
  • 生活保護受給中ながらも31歳のときにニコニコ生放送経由で知り合った彼女(歴代3人目)もなんとか将来を考えてと仕事するも結局うまくいかずにすべてが破綻。職を失い女性も失う。
  • 生活保護の回数は数えてないが3回抜けて現在4回目の受給中とのこと。
  • 仕事で金を稼いでいても使い道がない。とにかく金に興味がない。生活水準を上げたい、良い服を着て、良い車に乗って、良いもの食べていい女抱いて・・・みたいな願望がないので貯金が出来ても、持て余して宝くじを20万円一気に買ったりとろくなことはしない。
  • 家庭が持てるかもしれないと淡い希望の元、養っていくためにとサクラ仕事を何とか頑張ったが、ふわっちという配信サイトで知り合った相手女性(北海道在住、既婚者子供二人)と結局破談になり、この頃が最後の入院。
    家庭を持つことは完全に諦める。いずれにせよ血の繋がらない子供2人を何とかするほどの寛大さはなかったと思われる。
  • コロナ期には女性もおらず、フルリモートでサクラをしていたが、「何のために金を稼いでいるのだろう、一日12時間もパソコンに向き合って何か意味が?」「金に何の意味が?働くことの意味は?生活の意味は?」という疑問が湧いてきてしまう(働かずとも生活保護で暮らしていけることを知ってしまっているから)。
  • 以後ずっと無職生活保護、家に葬儀屋が深夜に呼ばれたり身に覚えのない郵送物が送られてくることには慣れた。
  • ニコニコ生放送では口喧嘩では飽き足らずリアル喧嘩までしていた(今でこそもうしないが)ので警察のお世話になったこともある(数えきれない)。
  • 刺青を刺れだしたのは尋常性乾癬がルミセフという生物学的製剤で一気によくなったのと、サクラ会社従業員の刺青率の高さが影響していると思われる。
  • このぐらいかその前あたりで埼玉メディカルセンターに転院(家から近いから)。
    診断名が広汎性発達障害とついたのは恐らく28歳ぐらいの頃。
  • おそらく大学関係の医局人事的?なものであろうが、F医師からS医師に代わり突然告げられる。
  • 何かを自己申告したわけではないし、対応策を示されたわけでもない。ただ「躁うつもアルコール依存もベースには発達障害があるから」という説明がなされるのみ。
  • 読んではいないが診断書の内容もかなり適当に書いてあると思われる。その診断書で生活保護が継続されて就労指導も入らないのは経済的メリットといえばメリットだが。

◆現在の悩み

  • 普通の一般社会にも馴染めないし、裏社会にも馴染めない、障害者社会にも馴染めない。就労移行支援やら作業所やら障害者雇用とかデイケアも馬鹿らしくてやってられない。
  • 「やってみなければわからない」ではなく、もうどうなるのかが結果がやる前から分かりきってる。また、初診のF医師からもそういったプログラムへの参加へは初期の段階で「合わない」とされている。
  • どこにも居場所がない。ケースワーカーに一応の相談はした。公務員の立場を考えたら具体的に何をしろとか、どこに所属しろとかそういう指示が出来ないのは理解している。「なんでもいいからとりあえず行動してみたら?」的なぼんやりとした提案みたいなのをされる。一理あるといえばあると感じる。

【重要1】

  • 人の悩みを聞いたり相談に乗ったり世話をするのは好きだし得意分野だとは勝手に思っている。そこに金銭的なものが発生しなくても。
  • 具体的にはネットで見つけた困ってる見ず知らずの人に短期間だが無償でアパートに泊めてあげたり、女性の離婚調停で親権が取れるように素人意見でもアドバイスをしたり、仕事関係で悩んでいる人に「こうしたらどうだい?」と提案したり、尋常性乾癬で悩んでいる人に「生物学製剤は試したかい?」と聞いてみたり・・・他多数。

【重要2】

  • 「こういう自分の中のまだ良心的であろうとされる部分が何らかの形で社会復帰に繋がれば・・・。」という期待が僅かにある。これが今回、人生の全ての話をした一番の決定的な理由。
  • 家族とも縁が切れているし、友達もいないのでこのまま一人で誰も知らないまま孤独死するのかという心境。
  • 就労指導すら入らない。社会的には既に死んでいて、あとは肉体が死ぬのを待つのみなのかな・・・という心境。遅いか早いかだけ。いつ死んでもいい。

◆最近自己分析しだした主義や思想的背景について

  • 精神主義的(非拝金主義、反物質主義的な意味合い)。金に価値なし。モノに価値なしという考え。
  • 反権威的主義的(医師という権威に意見を仰いでるが)。

◆「ギフテッド的ないし2E」かもしれない要素(願望)

  • 全くのゼロスタートから7か月の受験勉強を記憶力のみで一応乗り切って浪人も留年もしてないこと。
  • 各種サクラとしての腕前が一流と評価されていること。言葉巧みに人の財布を開かせる文章を書けること。
  • ニコニコ生放送の「喧嘩凸」では負けた記憶がない。言い合いになって言い負かされた経験はない。
  • 「モテる男のモテなし料理ブログ」(言葉遊びが入ってた)が、すぐに飽きたが一時期ネタブログとしてそこそこバズりはした。内容は架空の料理の悩み相談に対して私が適当なことを言って、ゴミみたいな料理レシピを提案して作って、写真載せて解決させるスタイルの完全なジョーク・ネタブログ。「にほんブログ村」というブログ閲覧者数ランキングサイトの「料理カテゴリ」でプロの料理人のガチ料理ブログを抑えて上位に食い込んだこともある。
  • 記憶力がいいこと。

  • 以上が、大体のまとめです。
    コミュニケーション能力に難があって、反復行動やこだわりが見られるだけの、ただの広範性発達障害者として扱われるのは適切ではないのではないか?
  • 食べてテレビ見てネットして薬飲んで寝ての日々を繰り返す。生活保護受給者無職で終わっていいのか・・・。何らかの社会復帰的な道筋が見えてこないだろうか・・・。
    というわずかな望みにかけて全てをお話ししました。
  • 全く推敲しないで一気に書いたので読みづらいですし、後半かなり雑ですが。大まかに書いてみたらこのぐらいの38年間です。